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のテーマ曲(カートリッジをゲームボーイに差し込んではじめに流れる曲)ってハ長調?打ち込み楽だわね。

やったのは2まで。ナーシャ・ジベリは神。

 

なんだかんだ言って思い出補正が最強なんだろうけど、この頃のゲームの音楽が一番好きだし、プレイもこの規模が限界だな。

 

『頑張れば』『短時間で』『最高の楽しみを味わえる』

『音楽は』『最高』

『たまに(大方)』『クソゲー

 

この頃のゲームクリエイターの話を見ると、ドロップアウトしてゲーム業界に入った人ばっかりなんだよな。

全員が全員、そうじゃないかもしれんけど。アニメの世界もそうだっけ。

(漫画はそういう人が少ない感覚)

 

音楽家として生きたかった人。実写の映画を作りたかった人。

 

ファミコンが流行った頃。当時はテレビゲームなんて、子供のための下卑た遊びでしかなかった。

親はゲームばかりする子供をもの凄い勢いで叱りつけた。

過去、小説を読んでは怒られた記憶を思い起こしてか、または封印してか。

 

ゲーム会社は「ゲームは一日1時間」などの標語を作って、なんとか親に取り入ろうとしていた。

 

その後、ゲーム・漫画・アニメは日本のエンターテイメントの最前線(の一部)の担い手となった。

一流のプログラマイラストレーター、音楽家、そして高学歴の人間。

そんなのを囲って、今なぜか停滞している。

 

技術が複雑化すると、表現するための手順も指数関数的に増えていって、何かをするためのコストが爆発的に増えるのかな?

 

技術が進化して表現できることが増えるとともに、受け止める側のハードルもものすごく上がって、自分の表現よりも相手の期待に答えることが優先になって。

応えるための時間が足りなくて、でも食わなければ死んでしまうから、とりあえず応えてたら数年経って。

 

現代芸アートはそういった問題を突き抜けたんだろうな。

「ついてこれないお前が悪い」って視点で突っ走ることで。

 

一つの答えだとは思うけど、よく分からん作品も多い。

意味わかんないものもあれば、気持ち悪いものも多い。

俺としてはあまり好きじゃない作品が多いかな、もてはやされているものでも。

ベクシンスキーは好き。キモイけど。……これも現代アートなのか?

 

古臭くってダサいのかもしれないけれど、俺は幻想的でキレイな絵が好きだな。

奇抜さなんてどうでもいい。

 

そういう方向性で、ファミコンスーファミぐらいの素直に楽しいゲームの音楽、ビジュアルってのが好きだ。

自分の好きなものを、各々が最大限に発揮できているように思える。

そういうのを受け取るこちらもちょうどいい年代だった。

 

プレステは2くらいまでやって、楽しいゲームもあった。

でも声優がつくゲームは俺にとってゲームじゃない。そういうのは映画だけでいいんだ。

声優付きで唯一アリだと思ったのはミンサガくらいだ。

あれはやりたいことを結構突き抜けてやってた感じ。河津秋敏はそういうとこあるよね。大好きなんだが、彼のせいで痛い目を見たキッズも多い罪深き人だ。

 

 

昔、親が言っていた。

「漫画は画面を強制的に押し付ける。それが嫌だ。自分で考える余地を奪われる。小説は自分で画面を想像する。それがいいんだ」

 

俺は漫画世代だし、でも小説も好きだし、親の言い分もわかれば漫画の気楽さも大好きだ。蒼天航路とか気持ちよくて最高に好きだし、宮城谷昌光さんの『孟嘗君』に出てくる白圭のかっこよさは俺の脳内で完結されている。

 

そういう俺が理解できない『声優つきゲーム』が標準になっている今は、すでに次世代に突入しているんだろうな。

 

 

思えば、文学も映画も、時代時代で散々「落ちぶれた」「後退した」って言われ続け、新しい文化に蹂躙されそうになりつつ、節目節目ですごい作品を供給し続けている。

のかもしれない。

成熟した文化っていうのはそういうものかもしれない。

 

そういう意味では、ゲームもそんな領域に入りつつあるのかな?もしくは本当に後退しつつあるのかな?

 

 

 

と、任天堂スイッチとやらを買う衝動をとうの昔に失った中年オヤジが書いているブログがこちらです

 

 

 

 

期ー衝ー動ーにーー魅せーーらーれてー